追悼:2007年に息絶えたフリーソフトウェア系プロジェクト

 先日、私が使用している小型アプリケーションのプロジェクトWebサイトにアクセスしたところ、そのwikiはスパム一色で塗りつぶされてしまっていた。このプロジェクトは完全に破綻し、コードも半年以上前から打ち捨てられた状態になっていたのである。そこでふと感じたのが、私が使用しているアプリケーションの中でこちらが気づかぬままにプロジェクトが活動停止に至っているものはどれだけ存在しているのだろうという疑問だ。そこで本稿では私が昨年記事として取り上げたうちで、すでに逝去したと見なせるプロジェクトがどれだけあるかを確認することにする。

 さてこうしたリストを考える場合、オープンソースソフトウェアにおいて何を持って活動停止したプロジェクトと見なすかの線引きを事前に定めておかなくてはならない。まずアプリケーションの中には、ある程度の完成状態に到達してしまったが故にその後は長期にわたってアップデートされないというものも存在する。システムライブラリ関連のものでこの範疇に属すものはほとんどないが、物好きなプログラマが作成したニッチ中のニッチ的な使い道しかないアプリケーションの場合は、Linuxカーネル側で根本的な変更が加えられでもしない限り何らのアップデートが施されなくても特に不思議はない。例えば私が昨年11月に記事を執筆したHeyuというアプリケーションもこのタイプに属している。これはX10と呼ばれるホームオートメーション制御用のアプリケーションで、ごく限られた種類のハードウェアとシリアルポート通信をするためのものだが、このアプリケーションの新規リリースを必要とするX10プロトコルの改訂などはめったに生じないはずだ。実際Heyuのアップデートはごく稀にしか行われていないが、このプロジェクトは活動停止している訳ではない。

 よってここでの線引きは開発者の活動状況を基準とするが、その際には具体的な開発活動だけでなくコミュニティ的な活動状況も配慮することにする。つまりリリースの頻度が極めて低い場合でも、ユーザから出された質問に対する開発者サイドによる回答が積極的に行われている、新規ユーザへのサポート活動が継続され続けている、コードに関する議論が活発であるという場合、そのプロジェクトは生きていると見なすのだ。例えばWengophoneプロジェクトは2007年末に大手企業スポンサによる資金提供を失ったため、有償で参加していた開発者たちはこのプロジェクトから去っていったが、その後もボランティアコミュニティは同アプリケーションの今後について大筋から細部に至る検討を継続していた。その後程なく新たな企業がパートナとなって開発活動に協力する運びとなり、このプロジェクトは見事に息を吹き返したのだ。

 この基準に照らし合わせて整理すると、私が2007年中に取り上げたうち正式ないし暗黙の形で店じまいしたプロジェクトは4つ存在し、またそうした危機を憂う段階のあるプロジェクトは5~6件あるように見受けられる。

該当するプロジェクト

 プロジェクトによっては活動を停止した時期と理由を明確に宣言しているところもある。例えば昨年2月に圧縮ツール関連の記事で触れたunrarlibの開発者はプロジェクトの終焉を公式に宣言し、同Webサイトの訪問者に対してこの決定に関するメッセージを掲示している。これなどは最大限に明快かつ簡潔な終了宣言をした事例としていいだろう。

 これよりも若干明確でないケースとしては.Macの無償オープンソース版の開発コンテストにて優勝したBen Spink氏の事例があり、同氏はnotMacという.Macの無料版サービスを開発した後に、将来的に活動を継続するだけの時間が取れないと判断した旨を告知するというだけの措置を行っている。皮肉屋の私にとってこのケースは“助成金”型のコンテストの優勝者は賞金さえもらえればその後のコード開発を継続する意欲を失うことがある好例だと思えてならない。なおSpink氏は、誰か関心のある人間が同氏が手を引いた作業を受け継いでくれても構わないとも補足しているが、そうした選択肢も取りえるのはフリーソフトウェア系プロジェクトでは自明のことであり、実際に後継者が出てくるとはさほど期待できないであろう。

 ベクトルグラフィックエディタのXara Xtremeもこれと同様の結末に至っている。同アプリケーションの権利を所有する企業とボランティア開発者のコミュニティとの間ではコアライブラリをプロプライエタリ化しておく件についての討議が行われていたものの、これが昨年夏の段階で完全に暗礁に乗り上げたのである。このケースにおいても前任者たちが放棄した作業を誰かが継続することは不可能ではないが、特にこの場合はプロジェクトの規模と複雑さを考えるとその可能性はあり得ないと見ていいだろう。企業から賃金の支払われていた開発者とボランティア参加のコミュニティの双方が撤退した現在、十中八九その命運は尽きてしまっている。

 例え素っ気ないものでも明示的な終了告知をして活動を終えるのはむしろ少数派に属す事例であり、多くの場合はプロジェクトの終了時期を告げる宣言やイベントが何ら示されることなく、徐々に活動が不活発化し、ユーザだけが知らぬ間に取り残されて終わるだけである。

 後者のケースに多く当てはまるのが個人運営のプロジェクトだが、開発者の数が少ないほど余裕が無くなるものである以上それも致し方のないことであろう。同様にFirefox機能拡張やアドオンもこうした状況に陥るケースが多く、例えば昨年5月の記事で私が紹介したBiet-O-ZillaというeBayの最終入札をサポートするための機能拡張もその1つである。サードパーティ系の機能拡張を扱っているWebサイトを飛び交う情報を基に推測する限り、この機能拡張はユーザの間で結構な人気を博していたようなのだが、開発者によるアップデートが停止された結果、(サイトも含めて)最終的に完全に活動が潰えてしまったということらしい。

 このように1つのプロジェクトが非常に危機的な状態に差し掛かるのはメインの開発者がコード構築の意欲を失った時なのだが、Firefox(およびその他のMozilla系アプリケーション)用の機能拡張に関しては、Mozillaプロジェクトのホスティングサイトが機能的に見劣りする点が1つのアキレス腱にもなっている。Mozilla系アプリケーション群の機能拡張は、そのAdd-onsサイトオフィシャルな総合入手ページとされているのだが、ここではバグの追跡やソースコードの管理システムといった機能拡張の開発者を対象としたリソースやサービスは何も提供されておらず、XPIのアップロードおよび簡易的なコメントシステムが設けられているだけなのである。新たにFirefox機能拡張を開発しようとする際は、プロジェクトのホスティングサイトを別途登録する必要があり、その後のAdd-onsページのメンテナンスも余暇を割いて各自が自力で行うしかない。

グレーゾーンに属するケース

 私が2007年の執筆記事で触れたうち、外から見る限りは活動停止に陥ったよう見受けられるが、現状はその存在そのものが世間に認知される前の段階であるため、今後の成り行きでは息を吹き返すかもしれないという特異な状況のプロジェクトが2つ存在している。その1つはDavid Trowbridge氏の手によるlibcontrastで、これは革新的な機能を有しているものの各種アプリケーションでの広範な使用には未だ至っていないが、その責任を開発者であるTrowbridge氏に問うのは酷というものであろう。もう1つはAleksey Nelipa氏の作成したスケッチアプリケーションのGoghであり、これは同氏のホビープロジェクトという位置付けが初期段階から一貫していて、ここ最近はあまり活発な作業が進められていないものの、先の理由でメーリングリストやWebフォーラムという活動はそもそも最初から行われていないため、その意味で先の“コミュニティ的な活動状況”という基準に触れるだけである。

 Goghに関しては、優れたアイデアが取り込まれているものの簡易的過ぎる点も否めず、その想定ユーザであるグラフィックスタブレットの所有者の多くは、InkscapeKritaGIMPなどのより本格的な代替アプリケーションを好む傾向が見られるのだ。libcontrastもそうだが仮に私がGoghの今後について賭をするとしたら、そこで使われているアイデアを他のアプリケーションが受け継ぐという形でより多数の後継者を残すという路線にチップを張ることになるだろう。もっともどちらのプロジェクトにせよ、それが起こり得るのは先の話である。

消滅が危惧されるプロジェクト

 ここまでに見たプロジェクトはどれも冒頭で設定した活動停止の基準に一致するものばかりであるが、この基準には到達していないが危険水準に近い、ないし近づきつつあるというプロジェクトもいくつか存在している。なお私にはこれらのプロジェクトを批判する意図はなく、単にその存続を懸念しているだけであることを断っておく。

 ここでの筆頭に挙げられるのはN.E.R.O.という人工知能対戦をテーマとしたコンバットゲームである。このオフィシャルフォーラムを見た人間は同プロジェクトは既に放棄されたものと考えても仕方ないところだが、このゲームはテキサス大学にてコンピュータサイエンスの授業の一環として開発されているのであり、学期中は指導教官や学生達でにぎわっているものの、それ以外の期間におけるアクセスは閑散化してしまうのだ。

 このプロジェクトにまつわる真の問題は、コンピュータサイエンスの受講が終わってしまうと、空き時間に不自由していない学生であってもその後の活動を継続しようとしない点だ。夏休み中や卒業後もN.E.R.O.の開発を進めようという意思のある学生はいてもおかしくないのに、実際にそうした活動はなされていない。外部の人間で協力を申し出ようとする者も存在し、ゲームの一部に関してはフリーソフトウェア化するのも容易なのではあるが、プロプライエタリ扱いのTorqueゲームエンジンが使用されているが故にプロジェクト全体をリリースすることはできないのである。

 私自身N.E.R.O.については2本のレビューを執筆している。最初の記事にせよ2本目の記事にせよ、プロジェクトリーダからはオープンソースプロジェクトとしてのリリースを目標にコードのクリーンアップを進めており“近日中”には達成できるだろうとの見込みが伝えられていたのだが、実際にはその当時から何も変わっていないのだ。こうした発言をするのは気が引けるが、高すぎる目標はかえって成功を妨げるものであり(現行バージョンに対しある程度の不整合性を持つが一通り動作するソースでなく、Torqueを排除した上で洗練化したオープンソース版N.E.R.O.に固執する)、私個人としては結局N.E.R.O.のソースコードが公開される日は永遠に訪れないのであろうという悲観的な見方をするようになっている。いつの日にか授業の教材として使われなくなってしまい、それでお仕舞いということになるのかもしれない。

 崖っぷちに差し掛かっているのは、RAW写真エディタのLightZoneも同様である。その親会社であるLight Craftsは昨年12月にフリーウェア版Linuxビルドの提供を打ち切り、将来リリースされるであろう商用製品の時間制限付きデモバージョンにて置き換えている。ところが後者のリリースは今のところ行われておらず、Linux用ベータ版に対するオフィシャルなサポートも、「ユーザどうしで相互にサポートをしてください」というフォーラムのスレッドが出されているだけだ。より重大なのは最近になってLight CraftsのCOOを務めていたScott McGregor氏がフォーラム上にて同社からの離脱を宣言したことだろう。離脱の詳しい理由は述べられていないが、いずれにせよ同氏に先立ち開発者のAnton Kast氏(Linuxビルドのメンテナでもある)も昨年末に離脱していることから、LightZone社内におけるLinux擁護派の実力者が2名とも立ち去ってしまったことになる。

 最後に触れるのは、私がその先行きが不透明と感じているWYSIWYG方式WebエディタのKompoZerである。現状では昨年9月の0.7.10がその実質的な最終リリースであり、その後もKompoZerフォーラムにて0.8のリリースに向けた作業を開発陣が進めていることは示唆されているものの、2008年になってからは続報がほとんど入らなくなっているのだ。また仮にKompoZerの開発継続が確認されたとしても、この系列のWYSIWYGエディタに共通する不透明な歴史を依然として引きずり続けることになるだろう。昨年10月の記事にて私はKompoZerをNvuの後継ソフトだとしていたが、後者についてもそのオリジナル開発者であるDaniel Glazman氏が放棄したという歴史が存在しているのだ。同氏はNvuの開発を停止した後、XULRunnerベースの代替ソフトを作成するとアナウンスしているものの、具体的なコードは今のところ公開されていない。

フリーソフトウェア世界での適者生存

 生き残りに不可欠な周囲からの関心を集められなかったり意欲を失ったプロジェクトは“適者生存”の法則に従ってその活動を停止するしかない。実際フリーソフトウェアとはそういう世界なのであり、仮にユーザと開発者の双方がRARのサポートを止めてしまえばunrarlibもかつての恐竜たちと同様の末路をたどるしかないはずだ。むしろこれこそが自然な成り行きと見るべきなのではないだろうか?

 とは言うものの、私が2007年中に記事として取り上げたうちで既に活動を停止してしまったプロジェクトを振り返ってみると、ボランティア参加していたフリーソフトウェア開発者との良好な関係を築けなかった(あるいはその意図がなかった)企業の姿勢や、プロジェクトでのコード開発を有償で行っていたが他の職場に移る際に手を引いたプログラマなど、これらのプロジェクトを死に至らしめた各種の要因を感じ取られずにはいられない。そしてその多くは、その気になれば事前に対策が打てたものばかりなのである。もっとも、いったんは放棄されたプロジェクトとはいえ、オープンソースソフトウェアの活動成果はその後もインターネット上に残されるため、長期にわたり忘れ去られて時代遅れになったコードであってもそれを必要とする人間が現れれば、何らかの用途に供されて第二の人生を送るという可能性も完全に閉ざされている訳ではないだろう。

Linux.com 原文