大規模なコラボレーション活動を成功に導く5つの原則――パート1

 Linuxの商業的な成功については、そのサポートコミュニティが既成概念にとらわれない方式でアイデアの創造、共有、試験、廃棄、開発を進めていく方法を自発的に体系化できたためと言っても過言ではないだろう。こうしたLinuxを取り巻く活動には、We-Thinkプロジェクトを成功に導く5つの原則を見て取ることができる。今回解説するのは、そのうち最初の2つについてである。

本稿は最近出版された『 We-Think: The Power of Mass Creativity 』からの抜粋である。

コア

 物事には最初の出発点が必要であり、余人の追随を許さない積極的な姿勢で取り組もうとする先駆的な人間がいない限り、何事も成し遂げられないものである。創造的活動に勤しむコミュニティもそうした先駆者の知的活動をベースとして始まるものであるが、Linuxの場合もLinus Torvalds氏が開発に没頭した成果をインターネットに公開したカーネルがその出発点となっている。

 有力な貢献者や開発者を呼び寄せてコミュニティを形成させる鍵となるのは、1つの優れたコアの存在である。コアとなる存在は魅力的なものである必要があるが、新たに手を加える可能性が残された未完成状態でもなければならない。既に完成されたものでは改善の余地が乏しいからだ。Jane McGonigal氏はI Love Beesのようなゲームを成功に導くコアについて論じており、その初期状態が多義性を有すことで様々な解釈を可能にしているかが大きく影響するとしている。こうしたI Love Beesにしろ、線虫(C. elegans)のゲノムを解読しようとするワームプロジェクトにしろ、これらは各自が異なるスキルを有する多数の人間の協力によってのみ解決できるというタイプのパズルなのである。例えばカリフォルニア大学バークレー校の政治学者Steven Weber氏は、成功するオープンソース系ソフトウェアプロジェクトは“多次元的”で複雑化する傾向にあるが故に様々なスキルを持つ人間を歓迎することになるとしている。またThomas Kuhn氏はその科学革命史において、新たに生じる知的コミュニティにおけるコアの有す多義性についてまとめている。Kuhn氏が論じているのは、少人数の先駆者がつどうグループが1つのブレークスルーを達成することで新たな科学的パラダイムが生じてきたという可能性である。

(そうしたブレークスルーは)科学的な論争に陥らせることなく、支持者達を引き付け続けておくに足る充分な先駆性を有していた。そして同時に、新たに形成された探求者のグループが遭遇する問題をすべて協同で解決するだけのオープン性を備えていたのである。

 しかしながらこうしたコアが発展していくには1つの条件が付随する。つまり追加や修正という誰でも行える作業については、オリジナルの創造者達が自ら手を引く必要があるのだ。真の意味での革新性をもたらすには、多様なスキル、見識、知識を持つ人々の間で、共通する問題の解決を目的とした創造的な意見交換が行われなくてはならない。We-Thinkというのも、こうした意見交換を導く上での新たな一手段である。優れたコアとは創造的な意見交換を出発点とするものであり、そうした活動に自分も貢献したいと考える人々を引き付ける存在なのだ。

貢献

 創造的活動を行うコミュニティが成功するには、様々な発想や見解を持つ人材が適度な比率で参加している必要があり、また貢献活動を可能とするツールへのアクセスも不可欠である。We-Thinkもその出発点として、貢献できるのはどのような人々か、そうした人々は何の貢献ができるか、そのような貢献をする理由は何か、貢献をする際は具体的にどのような活動をするのかという一連の問題について、その正しい答えを得ることから始めなくてはならない。

 創造的なコミュニティは一種の社会構造を有すものである。一般的に中心的な活動の大部分をこなすのはコアとなる比較的少人数のグループとなる傾向が見られるものだが、その具体的な事例としてはSlashdotでの討論のモデレータ達やSecond Lifeの最初の住人達のことを考えればいいだろう。これはいわばWeb 2.0世代の貴族政治なのであり、長きに渡りより多くの作業をこなしてきた者こそが、その意見をより多く採り上げられるのである。こうしたものはごくありふれた現象のはずだ。企業にせよ劇団にせよ研究所にせよ革新的なプロジェクトというものは、志を同じくする者や共通の問題に取り組む者からなる少人数グループ内で形成される緊密なコラボレーションが出発点となるものであり、例えばケンブリッジ大学のSydney Brenner博士を中心に線虫研究者が集ったのもこれと同じ現象である。ただしこうしたタイプのコミュニティは、閉鎖的で内向き思考にとらわれる危険性を有している。そのような閉鎖性を打破し、より多様な貢献者を迎え入れて既成概念に挑戦する意欲や知識を注ぎ込んでもらうには、外の世界に対するオープンな姿勢を保たなければならない。

 We-Thinkプロジェクトが始動し始めるのは、中程度の意欲を持ってプロジェクトに参加するより多くの群衆を引き付けられるようになった段階である。こうした人々による1つ1つの貢献は散発的で重要度も小さいが、それらが集結して得られる成果はコアグループの人間が初期段階にて行う活動に匹敵する貴重な存在となる。例えばLinuxの場合、コアを成す主要プログラマ約400名に対して、コミュニティメンバとほぼ重なる一般の登録ユーザ数は150,000人近くに達しており、後者による貢献はプログラム中のバグを見つけてレポートしてくるという活動が大半を占めている。しかしながら、こうしたレポートの1つがスタート地点となって、新たに重要な革新をもたらす場合もあるのだ。つまりこの場合、いわば群衆に過ぎない人々による活動が、より精力的に取り組むコアメンバの知的成果と同程度に重要な貢献をしたことになる。もっとも、このように雑多な群衆が知的な成果をもたらす前提としては、その構成員が様々な視点から物事を眺め、各自の意見を公に発言するだけの自信と主体性を有していなければならない。例えばミシガン大学にて複雑系を研究しているScott Page教授は高度なコンピュータモデル計算を用いて、様々なスキルと見解を有す雑多な人間のグループと似通ったスキルと見解を有す特別優秀な人間のグループとでは、前者の方が優れたソリューションを導き出す頻度が高いという結論にたどり着いている。これはつまり様々な考え方をする雑多な人間から成るグループによって、より優秀ではあるが質的には均一な人間から成るグループが打ち負かされる可能性を示している訳だが、Page教授がその前提として指摘しているのは、前者が適切な状態に組織化されているという条件なのだ。

 こうした現象に対するPage教授による説明は、複雑な問題は展望の広いより多くの視点から見ることで解決しやすくなるというものである。例えば同質の思考をする専門家が集まったグループの場合その中の1人が行うのと大差ない発想での問題解決しかできないケースが多いように、思考パターンの共通する人間を数だけ増やしたとしても、多様なソリューションを導くという観点におけるグループ全体としての発想力はそれほど向上しないのだ。このように同じ発想しかできない人間の集団が共通する特定のポイントで一斉に行き詰まる傾向にあるのは、登山隊が最終的なゴールである最高峰の手前の山のピークで立ち往生している様子を思い浮かべればいいのかもしれない。それに対して各メンバごとに多様な思考をするグループであれば1つの問題を様々な角度から検討することができるため、特定の地点で行き詰まる可能性そのものが低い上に、仮に袋小路にはまった場合でも何らかの脱出策を見つけやすいのである。このように視点が多様であれば、より多くの候補となるソリューションを導ける可能性が高く、同時にそうした候補を多面的に検討することもできる。また一見すると困難な問題であっても、方向を変えて検討することで意外と簡単に解決できることもありえるだろう。実際、革新的な成果を導く過程においては、様々な方向からの検討により問題の単純化を図るという試行錯誤のステップを踏むケースが往々にして存在するものなのだ。例えば、「こうした手順では電球は作れないという方法を過去に1,000通りほど発見しました」と語っているのは、かの発明王Thomas Edisonである。

 ソフトウェアのバグは、多様な設定下でプログラムを実際に使用して初めて判明するものが多い。そのため同時に1,000人の人間が各種の異なるテストを実施する方が、1人の人間が延々と1,000種類のテストを行うよりも効率的なのである。これはオープンソース型のプログラムの方がプロプライエタリ系ソフトウェアよりも堅牢になる場合の原因でもあり、それはより長期にわたってより多様なユーザによりテストを施されるからに他ならない。革新的な発想の多くに対してもこうした分散型の検証活動が不可欠であるとしているのは、エラスムス大学のBart Nooteboom教授である。17世紀のオランダにおける帆船の発展史を調査したNooteboom教授は、最初は運河から始まり、湖やより大規模な内陸水路網の開発、沖合航路の発達、北海や大西洋など外洋への進出という環境的な変化に応じて必要な要件を満たすデザインを船乗りのコミュニティが実際に試験してから船体構造に適用させるという過程を経ることで、船舶設計上の突然変異的な進化がもたらされていたことを突き止めたのだ。We-Thinkの場合も、より広範で多様な視点においてアイデアの検証を速やかに実施することを可能にしており、こうしてテストに掛けられるアイデアは、その提案者であり緊密に結ばれた少数の中枢メンバとテストの実行者である雑多な一般メンバとの間で継続的に行き来することになる。

 この種のテストを可能とする前提としては、個々の参加メンバが自ら進んで貢献への意欲を持つことが不可欠だが、そのためには貢献者達の参加を容易にするためのツールが必要となる。例えばコンピュータゲームの中には、プレーヤ兼開発者が簡単に扱えるコンテンツ作成用のツールを用意することで大成したものが多い。同様にブログ用プラットフォームの生き残りも、オンラインでの記事入力と投稿を簡単化するソフトウェアの提供にかかっている。またシティズンジャーナリズムの発展に大きく貢献したのが、カメラ付き携帯電話の普及である。こうしたユーザ自らが使用するツールというコンセプトは、最初期のコンピュータハッカー達の間で醸造された自助活動という観念を拡大させたものに他ならない。LinuxのベースとなったのはUnixオペレーティングシステムの初期バージョンであるが、その開発を進めたプログラマ陣にはユーザに対するテクニカルサポートを提供するだけの余裕がなく、そのためプログラムを提供する際に行われたのが、配布用フロッピーディスクの束の中に一連のツール群を同梱しておき、問題に遭遇した場合はユーザ自身が解決できるようにしておくという措置であった。こうした既存サービスの様々な応用を可能とするツールの提供は、本来は受動的なユーザであるべき人々をコンピュータプログラミングの世界に積極的に参加させて開発活動の一翼を担わせるきっかけとなったのであるが、このような現象が遥かな先駆けとなり、従来は新聞の一読者であった人々が今や記事の執筆者と出版者と販売者を兼務する活動にはまり込み、報道写真を眺める側であった人間がいっぱしのカメラマンに変貌し、単なる視聴者の1人であった者が批評家や評論家の立場に収まるようになったのである。

 おそらくこうした現象を考える上での最大の難問は、どのようにして人々を参加させるかという方法ではなく、どうして人々は参加するのかという原因についてであろう。特にこの場合、金銭的な見返りも与えられず、大部分の貢献は単に忘れ去られるだけなのである。例えばオープンソース系ソフトウェアプロジェクトの場合は、その一部においてMicrosoftに代表されるプロプライエタリ系ソフトウェアへの反感が動機となっているかもしれない。その他には利他的な欲求に突き動かされている人間も少数ながら存在しているだろう。またオープンソースコミュニティにて自分のスキルを披露することで雇用の機会が高まることを期待した、一種の求職活動と捉えている人間もいるはずだ。しかしながら大多数のメンバにとっての動機は、自分という存在を認めてもらうことにあるのだ。つまり自分と同じ喜びを共有している人々の間で、その活動に自分が貢献したことを知ってもらいたいのであり、また他人が解決できなかった問題のソリューションを自分が見つけ出すのは大いなる達成感を味わえる行為なのである。昨今話題のWeb 2.0にまつわるサクセスストーリの多くは、公開中のブログすべてを追跡したい、動画や写真をオンラインで共有したいなど、ユーザ自身が不満を感じていた問題を解消するツールの作成がその出発点となっており、同じような要望を抱いていた多くのユーザが後からそのソリューションに飛びつくという流れで進行している。

 オープンソースとは、知的所有権にとらわれず第三者による自由な使用を認めるということである。そしてWe-Thinkの手法では、新たな創造を導くために人々の参加と共同作業を促す関係上、より多くの要件を満たさなくてはならない。オープンソースというプロジェクトの存在形態は、多数の人間が参加するコラボレーション活動にて創造性を発揮させるという意味において非常に強力な手法である。しかしながら様々なアイデアを統合するためには貢献者間での意見交換が不可欠であり、それには参加者どうしを結合するための機構を用意しなければならないのだ。

次回はこうした結合の方法について論を進める。

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