大規模なコラボレーション活動を成功に導く5つの原則――パート3

 Linuxの商業的な成功については、そのサポートコミュニティが既成概念にとらわれない方式でアイデアの創造、共有、試験、廃棄、開発を進めていく方法を自発的に体系化できたためと言っても過言ではないだろう。こうしたLinuxを取り巻く活動には、We-Thinkプロジェクトを成功に導く5つの原則を見て取ることができる。そのうち3つ原則は既に説明したので、今回解説するのは最後の2つについてである(前回および前々回の翻訳記事)。

本稿は最近出版された『 We-Think: The Power of Mass Creativity 』からの抜粋である。

協力

 貢献者がいかに多く集まろうとも、複雑な内容を秩序立った成果とするには参加者相互の協力が不可欠である。例えば百科事典を作る場合、大勢の寄稿者が無秩序に原稿を執筆すればいいというものではなく、そこに収録される情報を秩序立てて整理しなくてはならない。また多くの人間が参加するゲームやコミュニティの場合、参加者の行動を統制するルールを全員が承知していない限り、破綻を来すのは必至である。しかしながらWe-Thinkコミュニティの場合は、組織としての階級構造や強制力のある規則などは明示的に定められないものであり、そうしたケースではどのようにして自分達自身を律すればいいのだろうか? これは技術というより統制上の問題と見るべきだろう。We-Thinkが機能するには責任を持った自己統制が成されることが前提となるが、多種多様な人々の集うコミュニティの場合これは非常に困難な課題である。

 人間の考えが人それぞれ異なるのは価値観の相違に起因するものであり、それは何に関心をもっているかの違いに他ならない。例えば芸術的なイメージを通じて世界を見ている人間であれば、絵心を開花させてその種の仕事を生業とする場合が多いだろう。そうではなく物事を数値や金額に換算して見る人間であれば、絵筆の代わりに電卓を握る会計士のような仕事に就く可能性が高いはずだ。そしてイノベーションを行うには芸術家だけでなく会計士の才能も必要なのであり、その道具箱の中には絵筆と電卓の両方を用意しておくべきなのである。

 問題は価値観が根本的に異なる人間どうしでは、物事を進める上での理由や方法においても往々にして意見が食い違うということだ。イノベーションの達成に考え方の多様性は不可欠だが、何が重要であるかという価値観の相違は些末的な論争を誘発してしまいがちなのである。これはまた、医療や生活保護や社会住宅などの公共事業に関わる問題がなかなか意見の一致をみない原因ともなっている。いずれにせよ雑多な人々の集うコミュニティにおいて意見の不一致が際立ってしまうと、リソースの配分やゴールの設定についての意見が対立してしまい生産性が損なわれてしまう。例えばElinor Ostrom教授は、漁業や林業や農業で行われる集団作業が効率的に機能するには、灌漑用水などのリソースを1人で過剰に使用する者を出現させないための当事者達による自己統制と内部的な監視機能が必要だということを確認している。当事者達による自己統制が機能しないと、集団としての崩壊が始まり創造的な活動は不可能となる。

 We-Thinkの成否は、自己統制の機能するコミュニティを形成して、不一致面を際立たせることなく多様な知識を最大限に活用できるかにかかっている。それを可能とする唯一の方法は、明確で魅力的な単一のゴールを中心にコミュニティが結束して様々なアイデアの評価と整理をする合理的な方法を確立し、正しい形でリーダーシップを発揮する人材を確保することである。そしてこれは、平等主義的な理念の下で自己統制される民主的な組織と重なるものではない。

 ここでは1つの事例として、ユーザフレンドリなLinuxバージョンの1つであるUbuntuの開発を進めているオープンソースコミュニティを見てみよう。Ubuntuの創始者であるShuttleworth氏は、いわば慈悲深い独裁者という立場にあり、Ubuntu Webサイトのデザインなど一部の案件は同氏の判断のみによって決定されている。そして同コミュニティのコアを成すのがテクニカルボード(技術委員会)であり、ここでは技術的に統一すべき事項や個々のバージョンにてどのような機能を取り込んでいくかをオンラインミーティングにて定めている。この委員会による意思決定は透明性とオープン性を旨としており、例えば追加すべき事柄があればUbuntu wikiを通じて誰でも提案することができるし、委員会での検討事項は2週間間隔でwikiに掲載され、オンラインミーティングにはオブザーバ資格で誰でも参加できるのである。また最終的な決定はShuttleworth氏および同氏の指名する4名の委員会メンバによって下されるが、この決定についても同コミュニティで活動する主任プログラマ達の投票に掛けられるようになっているのだ。また別途設けられているUbuntuコミュニティ評議会は組織全体の構成を監視し、新規プロジェクトの立ち上げを始め、ラップトップ専用プログラムといった個別的な機能や各リリースごとの担当チームのリーダの任命などはこの評議会が統括している。その他に各自の国内でのUbuntuの普及を促進するLocal Community(LoCo)チームが、世界各国で設立されている。ソフトウェアコードの開発、変更箇所のドキュメント化、アートワークの作成、あるいはその他のUbuntuの支援活動に従事するものは、誰でもUbuntuメンバ(Ubuntero)となることができる。2007年中盤の数字として、同コミュニティのコアメンバは283名いるとされている。Masters of the Universeという異名でも呼ばれるコア開発者達こそは最大の責任と権力を有する人々であるが、彼らは独自の評議会を組織して誰がそのメンバとなるかを決定するようにしているのだ。

 Ubuntuは未だ完全な成功に至っている訳ではないが、その活動から窺い知れる教訓とは、創造性を発揮するコミュニティにとって有効な統制手段は格子細工的な形態を取るということだ。まず意思決定の過程は高度にオープン化されており、検討される議題とその様子は誰でも確認可能で、追加すべきアイデアがあれば誰でも自由に提案できるようにしてある。しかしながらここでの意思決定は、完全な平等を目指した民主的な方式では行われていない。つまり製品としてのUbuntuはオープンソースなのかもしれないが、それを支えているコミュニティは自由放任型のオープンエンドな組織ではないのだ。こうしたコミュニティに1960年代に流行したユートピア的なコミューンを当てはめるのは間違いなのであって、それこそが過去の協同組合的組織では果たせなかった成功を収められる可能性の高い理由なのでもある。

創造

 We-Thinkが可能にする集団による創造的な活動とは、視点やスキルを異にする多数の参加者が分散しながら作業を進め、そうした形態での貢献を可能とするツールを用意した上で、各自の果たした成果を共通する目的の下で統合できて初めて機能するものである。このように参加者が分散して活動する場合に不可欠なのは全員が共有できる1つの目的であり、そうした存在があってこそ組織はまとまり、各自の成果を統合することができるようになる。こうしたコアとなりえる存在は、古代ギリシアの叙事詩、遺伝子のコード、今日的なソフトウェアプログラム、1冊の百科事典など様々であるが、いずれにせよこのプロセスの大部分においては各参加者がそれぞれの作業を並列的に進めていく関係上、その過程においてはコアとして目指す成果そのものが変質していく事態もある程度は避けられない。つまりこうした成果とは、考察や模倣や支持や批評というプロセスを反復的に積み重ねていくことで、それ自身が成長していくものなのである。多くの人間にとっての参加の動機は、この種の活動に付随して得られる喜びと、自分の果たした貢献を他の参加者に認めてもらいたいという欲求に他ならない。それ故にこうしたコミュニティは、フォーラム、Webサイト、イベント、広報誌、雑誌などの形態で、参加者が各自のアイデアを公開して他人と共有するための場所を用意しておく必要がある。いずれにせよ創造性を発揮する集団とは、自由放任型の組織ではなく高度な統制されたものとなるはずだ。ここでは専門家とアマチュア、聴衆とパフォーマ、生産者とユーザの区別などは曖昧化してしまうが、その一方で各自の貢献度や過去の実績を基にしてコミュニティ内で特に秀でた存在が集まりだし、ネットワーク世界における貴族社会とでも言うべき体制が形成されていく。有効な自己統制が機能していない限り集団としての創造性は潰えてしまうが、その理由はソースコードに取り込むべき機能にしろ、サイトに掲載するべき内容にしろ、ニュースのトップに掲げるべき記事にしろ、そうしたものを確定するには何者かによる意思決定が必要だからである。またコミュニティのルールに従えない参加者は何らかの方法によって排除されなくてはならない。ここでは他の参加者の下す決定を尊重させる必要があるのである。

 この種のコラボレーションの基になるのは創造的才能であるが、それは非常に多様な存在である。何が得意分野で、どのような手法を用いるかは、人それぞれだからだ。更に創造的才能というものの優劣は外部から推し量るのが非常に困難であり、作業能率を評価する時間動作研究などで計測することはできはしない。よって創造的活動に従事する人々の作業を職務明細書として書き下すのは不可能であり、例えば“新規のアイデアが必要なので誰それが何時までに創造しろ”という指定はできるものではないのだ。こうした創造的活動の管理という困難な課題を、オープンソースコミュニティの場合は意思決定権を複数の小グループに分散するという方式で対処しており、各グループはそれぞれが有すスキルと課せられた役割に応じて自分達が何をすべきかを独自に判断するのである。またこのように同じ土俵で活動する人間が多数いる環境では、他人の目を欺くのは非常に困難であり、そうしたものは直ぐに露見してしまう。このピアレビューというシステムは正常に機能さえすれば、低コストにてアイデアを共有し高い品質を維持する上での優れた手法なのである。

まとめ

 We-Thinkの手法が機能しない状況としては、コミュニティ形成の基となるコアが存在しない場合、試行錯誤を繰り返す予算および時間的な余地が乏しくフィードバックの得られない場合、複雑なルールの下で意思決定プロセスが不透明で煩雑化している場合、プロジェクトの魅力が乏しく充分な規模と多様性を持つコミュニティを形成できない場合を挙げることができる。その他にも、コンテンツ提供用のツールが扱いにくい場合、参加者どうしの結合を妨げる組織構造になっている場合、有効な自己統制ができず硬直化ないし断片化したコミュニティの場合もその有用性は発揮できない。また外科的な手術や食材の調理、あるいは鉄道や製鉄所や原子炉の運転といった多くの重要な業務に関しては、We-Thinkという手法のまったくの適用範囲外である。専門知識を有するプロフェッショナルのみが行えるタスクに、この手法は適していないのだ。例えば私自身2006年末に簡単な手術を受けたが、その時の担当医のサポートに付いている助手が雑多の職種の人間が混在するプロとアマの集団で、これから行う手術の術式をWikipediaで確認していたりすれば、私はとても平静ではいられなかっただろう(プロとアマの混合競技においては、アマチュアもプロフェッショナルレベルのパフォーマンスを求められる)。

 つまりWe-Thinkは非常に限られた条件下でのみ機能するのである。通常、他の協力者を引き寄せる存在となるコアが少人数からなるグループによって形成される必要がある。貢献活動に必要な時間とスキルと意欲を有す多くの協力者達の好奇心と挑戦心をかき立てられるプロジェクトであるからには、人々の目に魅力的に映らなくてはならない。分散した活動を支えるためのツールは実験的な手法を取るため、低コストで迅速なフィードバックが得られて、試行錯誤的な検証と改善のプロセスを継続的に進めていけることを必要とする。そこで行われる活動の成果は、広範なピアレビューを受けることで誤った考えが訂正され優れたアイデアが認識されるという性質のものが望ましい。処理されるタスクは、各種の試みを並行して進める関係上、緊密に結び付いた小規模なチームで処理できるモジュールへの分割が可能でなくてはならない。最終的なモジュールの統合および、優れたアイデアと誤った考えを識別するためには、明確なルールが定められている必要がある。アイデアの共有に意味を持たせるには、プロジェクトの一部を公開しておかなくてはならない。

 We-Thinkの適用に関しては、使えるか使えないかの二元論的な判定ではなく、個々のケースごとにどの程度の有効性を発揮できるかを考えるべきである。従来的な閉鎖式の階級構造組織が適しているケースではWe-Thinkの有効性は最も低く(No We-Think)、LinuxやWikipediaなどのケースではWe-Thinkの有効性は最も高く(Full We-Think)、これらの中間に位置するケースの場合はここで解説した手法を様々な形態で組み合わせられるはずだ。

 1つの好例はブログであろう。これは多数の人間による各自の意見の公開を可能としているシステムだが、コミュニティ形成のコアとなる存在が生じるケースはほとんどない。通常ブロガーどうしのコミュニケーションは、個人間で自由に連絡を取り合うだけである。この場合、デジタル空間の一隅に自分という存在の足跡を残すことだけがその目的であるため、ブロガーどうしが協力して1つの物事を達成するという意図は端から無いのだ。つまりブログという活動は、参加性が非常に高いのと同時にコラボレーション性は極度に低いのである。写真共有サイトのFlickrもビデオ共有サイトのYouTubeも、こうしたWe-Thinkの有効性の低いカテゴリ(Low We-Think)に属すが、これらは1人の参加者に残り多数の参加者を結びつける形でのみ参加者どうしを結合させている一方で、コラボレーション的な創造的活動がされるケースはほとんどない。ただし将来的にYouTubeをプラットフォームとして本格的な映画を協同製作するような時代が来た場合は、We-Think的な機能を採用することもあり得るだろう。

 We-Thinkの有効性が中程度である事例(Medium We-Think)としては、ソーシャルネットワーキングを考えればいい。MySpace、CyWorld、Beboなどのサイトは今のところコラボレーション的な創造的活動を促す性質はそれほど高くはないが、支持する政治家候補のサポート活動や共通のテーマに関心を持つ人々が集合する場所として利用され始めている。Amazonで行われている書評やレーティングや協調フィルタリング、あるいはソーシャルタギングツールとしてのTechnoratiやdel.icio.usなども、ユーザが互いに協力することで各自の興味に合うWebコンテンツを確認し易くしているという意味において、これらのカテゴリに属すと見ていいはずだ。

 We-Thinkが最大の有効性を発揮するのは、ここで解説した5つの条件がある程度のスケールでそろい、多数の人間がコラボレーション的な貢献をすることで集団による創造的な活動をその意図する形態にて行うという場合である。例えばこれに該当する具体的存在としては、韓国発のシティズンジャーナリズム型ニュースサービスのOhmyNewsが挙げられ、またWorld of Warcraftなどの大量参加型コンピュータゲームや線虫のゲノム解読などのコラボレーション型研究プロジェクトなどもここに属すとしていいだろう。つまりFull We-Thinkに適合するのは、分散して活動する多数の貢献者による協力を統合することを最初から意図して組織化された活動なのである。

 We-Thinkはどのようなシチュエーションにも適用できる訳ではなく、これを常に最良の組織運営論と見なすのはあまりにも短絡的である。We-Thinkが適しているのは、多数が協同して複雑な問題の解決に当たる場合、個人単独では成し得ない成果を導く場合、独創的思考が不可欠なアイデアを生み出す場合であるが、そうしたケースにおいても可能な限りWe-Thinkの適用度を高めるのは1つの課題となるはずだ。We-Thinkの適用はすべての組織に変質を誘発するとは限らないが、一部の組織はそのあり方を確実に変質させることになるであろうし、また部分的な変質に限ればより多くの組織がそうした影響を受けるに違いない。いずれにせよこの新たな組織運営論によって変質が迫られる可能性が極めて高いのは、組織の根底にかかわる部分なのである。

Linux.com 原文